2008年04月13日

(第4章)お茶摘み初体験

 新緑が薫風にそよぐ初夏のよく晴れた日、三笠山の南面の山林を10名ほどの村人が一列となって登っている。その最後尾にこの日茶摘に駆り出されたいつもの三人の姿が見える。その先頭に立っているのが寅である。万作と熊が後に付いている。
 朝早く5台の軽トラックに分乗して来た一行は、地蔵峠で降り、山林を登り始めてからかれこれ1時間に近くなるが、樹木に覆われている薄暗い山道は、まだまだ先が続いているようで、茶園らしきものは少しも現れてこない。
『まだ登らなきゃならんのかい。もう足がガタガタだ』
 と早くも寅が根を上げ出した。軽トラックから降りた際、めいめいに与えられた比丘(竹篭)が、腰に結えてあるのだが、それすらも邪魔臭いといった体である。
『俺たちを茶摘みに誘った寅さんがそんなことでどうする』
 と万作がなじる。
『いやなにね、例の製茶工場の跡取り息子に、人手が足りないからと、無理やり誘われっちまったのが運のつきで、まさかこんなに山を登らなきゃならないとは思わなかった。前を行く爺さん婆さん達もあの跡取り息子に騙されて来ているに違いない。もっとも、騙されてきているにしては、ずいぶん元気そうだ。この山道を登るのがちっとも苦にならないらしい』
『皆、この辺りに住んでいるのだろう。山を住処にしているようなものだ。寅さんとは訳が違う』
『仰る通りだ。もう限界だ。熊さん、どうだい一休みしようじゃないか。早く行って茶をたくさん摘んだからといって、俺たちの得になるものでもなし、お茶工場の跡取り息子を喜ばすだけのこと、何もこうまでして義理立てすることもあるまい』
 と寅は木株の上に腰を降ろしてしまった。よほどしんどいとみえる。そんな時、かなり離れてしまった先頭で歓声が上がった。

『着いたぞ!』
 見上げると、樹木が切れて空が明るく差し込んでいる。寅は仕方なくせっかく座った束の間の休憩を諦めて重い腰を上げた。一段と急な勾配となった最後の山道を這い上がると、急に視界が広がって、一瞬、目も眩むほどの急峻な谷間が足元から落ちている。三人はいっきに絶壁の頂に躍り出たのである。
 おっかなびっくり谷底を覗いている三人に、時折谷底から強い風が襲ってきてはさらに恐怖心を煽る。
『うわー、おっかねえ』
 と思わず熊が声を出す。それを見た土地の爺さん婆さん達が大きな声で笑った。その笑い声が軽やかに谷間を駆け下りていった。
『さて、始めるか』
 と一人の爺さんが声を出した。そのリーダーらしい爺さんの一声で皆が散った。
『爺さん、茶を摘むってどこで摘むのだい?』
 と寅が聞く。
『ここで摘んで貰うんだよ』
『ここで?この絶壁の上で?茶畑はどこに有るんだい?どこにもないじゃないか?』
『それ、目の前にあるじゃないか』
 と爺さんが目の前の木の葉をつまみながら言った。木の高さは爺さんの背丈ほどである。
『え?これがお茶の木かい?』
『そうだ。自然仕立てといって枝をそのまま伸ばしているのだ』
『へー、茶の木は皆かまぼこの形をしていると思っていたが、なるほど、こうしてみればちゃんと普通の木の成りをしている。植物ってのは、こうでなくちゃいけない。自然が一番さ、なあ、熊さん。いつも見ているかまぼこ型の茶園の木は、どうやら偽物らしいぞ』
 熊は、そんな話はどうでも良いという様子。しきりに二人の立つ茶の木から先が急な崖になっているのを気にしている。
熊の怖気付いている様子に気の付いた寅が、リーダーに尋ねた。
『爺さん、自然仕立ては結構だが、この崖っぷちの下の方のも皆茶の木かい?』
『そうだ』
『じゃ、この崖っぷち全体が茶畑と言うわけかい?』
『そうだ』
『すると、今から茶を摘むって言うのは、ここの事?』
『そうだよ』
 爺さんが答える。
『爺さん、ちょっと質問させて戴くが、なぜこんな急な崖っぷちにわざわざ登ってきて茶の木を植えなきゃならんのかい?他に良い場所がありそうなもんだが?』
『ここが良いんだよ。この急なところが良いんだよ。さっきから気持ちの良い風が吹いているだろう。この下から吹き上げる風がお茶には大変良いのだよ。お茶は霜に弱くてね、こういう冷涼な山間地では霜が一番の大敵なんだが、風があると霜は降りにくいのだ。特にここは谷底から暖かい空気が年中吹き上がっているので、これまでに霜にやられたことがほとんど無い。お茶にとっては絶好な場所という訳だ』
『なるほど』
『さあ、お前さん方は茶摘は初めてと見えるから、こんなふうに摘んで、腰の比丘に入れてってくれないか』
 と、リーダー爺さんが3人を促した。
『いいとも』
 と寅が元気な声を出して答えた。爺さんが1つ摘んで3人の目の前に出して説明を始めた。
『一番上の尖ったのが芯芽だ、その下に3枚葉が交互に付いている。一芯三葉で摘む訳だ。まあ、だいたいこんなところを採ってくれれば良い。葉が2枚になっても良いが、4枚5枚と多くしないようにして欲しい。良いお茶にしたいから』
『了解。それで、折るのかい?引っ張るのかい?』
『親指と人差し指で挟んで横に折るよう摘み上げれば大丈夫だ』
 三人が爺さんに倣って摘んでみる。三人三様である。爺さんがそれを見て言った。
『万作さんのは大変良い。熊さん、そんなに怖がる事はないよ。いちいち葉の枚数を数えるほど丁寧にすることはない。寅さんのは多少荒っぽいが良いだろう。ただ、寅さんだからといって虎刈りにならないように気をつけてくれ』
 と爺さんが冗談を言ったのか注文を付けたのか判然としない言い方をしたが、三人はもう夢中で摘み始めている。
 
 全員が黙々と茶を摘む。どこからともなく鶯の鳴き声がする。陽の光も次第に強くなって汗ばむ身体を薫風が通り抜けて快い。のどかである。しかし、寅の作業ははかどっていないらしく、比丘の中の茶はまだ少しである。堪りかねて熊の比丘を覗き込む。こちらの比丘の中もほんの僅かである。
『熊さんよ、どうやら俺たちが一番遅いらしいぞ。見てみな、皆、比丘を一杯にしては、あそこの大きな袋に入れている。それをもう何回もやっているようだ。どうして、こんなに差が付くと思う?』
 首を振る熊は寅に少ないと言われて焦りだした。
『いいかい、あの連中の手つきをよく見てみな、俺たちのやり方と違うとは思わないかい。どうもあの爺さん、我々には本当の摘み方を教えなかったんだ。出し惜しみしたに違いない』
 寅の疑問に熊が気にして、皆の手つきを見ると、確かに寅の言う通りである。その熊の顔を見て寅がリーダーに声を掛けた。
『爺さんよ、どうも摘み方があそこのおばさん達のやり方と違うようだが?』
 爺さんが顔を上げた。
『確かに。あのおばさん達の摘み方はしごき摘みと言って、あんた方の摘み方とは少し違う』
『少しどころかずい分違うようだが。爺さんどうして、それを教えてくれないのだい?』
『しごき摘みというのは、こうして、指で折らずに上に引っぱり上げて摘むのだが、これだと、硬めの茎は枝に残り、葉っぱだけが上手い具合に採れるんだ。が慣れないとなかなか上手くいかんだろう』
『その方が早く摘めるのかい?』
『慣れれば、早く摘むことは出来る』
 とリーダー爺さんが答えたが、あまり薦めたくない様子である。折角のお茶の葉が傷つけられては台無しである。しかし、寅にそんなことが解かろう筈もなく、声を張り上げた。
『じゃあ、決まった。それで行こう。事は簡単だ。引っぱり上げれば良いんだろう?』
 寅が知ったかぶりにやってみせる。万作は寅に黙って従う。それを見て熊が右手を枝の中に突っ込んで茎を掴んだ。この時、熊は急な勾配を背にして何とかバランスを取って立っていたのだが、新しいしごき摘み導入は熊にとっては、そのバランスを著しく損なうものであった。ましてや、茶園の土は枯れ草などが敷き詰められていて、ふかふかと柔らかく、踏めば足が沈む状態になっている。熊が突っ込んだ右手を引っぱり上げると同時に、身体を後方に反りあがらせたから、重心がかかとの側に移るや土がズブと沈んで、熊はそのまま後ろにのけ反るように崖の下に落ちていった。
 熊の顔が突然消えてなくなった。居合わせた三人がビックリ仰天。と、ザザザーと茶の木を揺るがせて崖をすべり落ちていく音。すわ一大事と三人が崖を覗き込む。すると八メートルばかり下で熊が何かにしがみ付いている。
 急峻な茶園は土が崩れ落ちないないように、要所要所に堰き止め用の丸太が横に敷かれていて、それを太い丸太杭で止めてあるのだが、熊はその丸太杭を必死に抱きしめているようである。
 それと見た万作が救出に滑り降りていこうとする。傍にいた爺さんがその万作の腕を掴んで止めるや、脱兎の如く茶園を駆け登ると、太いぶなの木に巻きつけてあったロープを抱えて駆け下りてきた。
『これを身体に巻きつけて降りろ』
 と爺さんが万作に言う。承知したとばかりに万作がロープを身体に巻きつけるや、熊のもとに滑り降りて行く。それに合わせて爺さんがぶなの木を介したロープを弛めている。その間、寅は万作と爺さんの見事な連携プレーには全く無頓着で、ただ熊に声を掛けているだけ。
『熊さん頑張れ。今助けに行くから安心しな。そのぼっ杭から絶対手を離すな』
 熊は杭にしがみ付いている。その熊の頭をめがけて、万作の駆け下りる足元から崩れ落ちる土石が容赦なくぶつかっている。その度に熊のしがみ付きが一層必死さを増しているようであった。やがて、万作が辿り着いた。万作は熊に声を掛け、ロープを身体に巻きつけようとしたが、熊は万作の言葉など耳に入らない。馬鹿力で杭にしがみ付いているから、なかなかロープを身体に巻きつけられない。それでも何とか万作はロープを自分の身体と熊の身体を一体に縛りあげることに成功。爺さんにロープを引き上げるよう合図する。この時には、事件を知った茶娘(?)達も集まっていて皆でロープを掴んで引き上げ始めた。万作は杭を抱きしめている熊の両手をもぎ取る様に引き離した。途端に二人の身体が勢い良く上に引きあがった。
勢い余って茶娘達が一斉に尻餅を付く。大きな叫び声と歓声がのどかな山間にこだました。
 
 熊の救出が終ると皆何事も無かったように茶摘に戻っていった。熊は茶摘から外されてぶなの木の下でうなだれている。それを寅が付き添って慰めている。
『熊さん、とんでもない目に遭っちまったなあ。それでも、大した事無くて良かったよ。あのまま下まで落っこちたら、青竜川に飛び込んで、今頃は幸福橋辺りまで流されているのかも知れない。5月といえばまだ川の水も冷たいから、川下りを楽しむのには早過ぎると思うよ。ここで、こうして鶯の声でも聞いている方がよっぽどましというもんだ。なあに、茶摘はあの爺さん達に任せておけば大丈夫だ。万作兄貴もあの通り頑張っている。第一、今日は新茶の走りを摘もうってことだから、跡取り息子だって高値で売りたいと思っているに違いない。つまりだ、上等なお茶を造らなけりゃならないって訳だ。それには、茶摘にしたっていい加減に摘めば良いってことでも無い筈だ。そう考えれば、もともと俺達素人の出る幕じゃないんだよ熊さん』
 寅の慰めに熊も幾分気持ちも収まってきているようである。こうして、いつしか太陽も中天に登りお昼となった。皆がぶなの木の下に集まってきて、筵を引き輪になって座り弁当を広げた。
『熊さん、災難だったなあ』
 と茶娘おばさんが声をかける。熊が一層萎れる。すると、茶娘おばさん達が、今朝早くから作って来た各自自慢の弁当を差し出して来て食べるように勧めた。
『口に合わんかも知れんが、まあ食べてみておくれよ』
 最初は遠慮していた熊であったが、茶娘おばさん達の強引な押し付けに負けて、宛がわれた箸を取って口に入れる。と、その美味しさに熊が目をパチクリさせた。山菜の珍味である。ひと泣きしたあとで空腹の上、一人暮らしのコンビニ族の熊が、この手になった珍味に感動しない訳はない。入れ替わり立ち代わり出てくる手造り料理を次々と平らげて行った。茶娘おばさん達はそんな熊を見て面白がって笑いこけている。万作が声を掛けた。
『よかったなあ、熊さん』
 熊が頷いた。茶娘おばさん達の親切が身に浸みている様子であった。

 昼飯が済むと午後の茶摘は皆黙々と作業に集中している。茶をしごく音と鶯の声のみの静寂な世界である。摘んだ茶は大きな袋に纏められ、慌しく山を下りトラックに積まれては茶工場に運ばれていた。やがて、太陽が西に傾き、吹く風も冷たさを感じるようになった頃、リーダー爺さんが大きな声を出した。
『もう、この辺にしよう』
 全員そそくさと帰り支度をすると、山を降り地蔵峠に戻る。三人はトラックが茶を工場に運んだ後で迎えに来るからと、その場に残された。茶娘達が残った三人に声をかけ手を振って去って行った。辺りは急に寂しくなった。三人は石地蔵の前に腰を降ろした。疲れているのか誰も口を利かない。次第に薄暗くなってきたのだが、軽トラックはなかなか迎えに来なかった。熊が心細さを隠さない。
 『熊さん、心配するこたあないよ。そのうちに迎えに来るさ。バタバタしたって始まらない』
 と寅が言うが、その寅の声も自信が無い。時は過ぎ何時しか陽はとっぷりと暮れて真っ暗になって来た。寅が心細さに我慢できずに立ったり座ったりと落ち着かない。その時、向こうの樹林の間から車のライトの明かりらしい光がちらちらと見えてきた。寅が二人に知らせると、小躍りして立ち上がった。明かりはドンドン近寄ってくる。するとエンジンの音も聞こえてきた。
 『万歳!』
 熊と寅が感極まって抱き合って喜ぶ。万作も笑顔を隠さない。
 やがてトラックが到着して、運転席から降りてきた見知らぬ顔の中年男から、迎えが遅くなった理由を聞かされる。どうやら製茶作業に追われて3人のことはすっかり忘れられていたということらしい。それでも、思い出した者が居ただけでも良かったと、その男が言う。3人は黙ったまま荷台の上に乗る。トラックは真っ暗に静まり返った山道を走り始めると、肩を寄せ合って乗っている三人の身体を右左に大きく揺らす。虚ろな三人の眼からは、見る見るうちに、石地蔵が消え、地蔵峠が去って行きました。
 
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(第3章)天狗の小便

  ある日、いつものように熊を従えてやってきた寅が、低い声で万作に話しかけた。
『万作兄貴、先日熊さんと一緒に市場に出かけたんだが、そこで、天狗山に本当の天狗が住んでいるって話で持ちきりだった。この話、万作兄貴は知ってるかい?市場の連中、いつもは欲の皮を突っ張ってるくせに、今は商売もそっちのけって有様さ』
 万作はあまり気乗りしない顔であったが、それでもしぶしぶと口を開いて言った。
『まあ、知らないわけでもないが』
『じゃあ、教えてくんな。おおかたの話では、どこからか流れてきた大男が、今では廃寺となっている梵釈寺に住み込んで、時折お参りに来る信心者の賽銭をかすみ取っている。それが天狗の正体に違いないと言っているんだが、それも、見たものが居るようで居ない。そんな賽銭泥棒が居たらふん捕まえてやるんだが。かといって、天狗が本当に居るとも思えない』
『わしも見たわけではないので何とも言えないが、ただ、裏山の婆さんがいつも、お天狗様が見守っていて下さるので有難い、と言っていた。ある時、本当に天狗は居るのかいと聞いてみると、確かに居ると言ったんだ』
『へー、それで』
『婆さんがお茶好きなことは、前にも話したことがあるので知っていると思うが、その婆さん、天気の良い日には必ず天狗岩まで登って行ってはお茶をあげていたそうだ』
『あの天狗山の東側の崖っぷちに突き出ているでっかい岩のことかい?あんなところまで登って行って?』
『そうだ。なかなかのもんだ。その健脚婆さん、岩の上にお茶を淹れた茶碗を置いては拝んで帰ってきていたそうだ。』
『へー、お茶をねぇ。天狗を喜ばすにはお神酒を出した方がよさそうに思うが。まあ、何をやろうが婆さんの勝手だ。で天狗が出てきたのかい?』
『いや、婆さんの話では、翌日行くと、あげたお茶はそのまま茶碗に残っているのだが、只、十五夜の翌日だけは必ず茶碗が空っぽになっていたそうだ』
『へー、それは不思議だ』
『婆さんは、お天狗様が飲んだに違いないと言っていたが、特別に確かめようとは思わなかったらしくて、天狗の姿を拝む事もなく、あの世に行っちまったんだ』
『成る程、すると婆さんも天狗を見た事が無かった。当然、万作兄貴も話を聞いただけで見た事は無い訳だ』
 と寅が何だか妙な野心を剥き出しにしてきて言った。
『今夜は丁度十五夜だ。なんとまあ良いタイミング。なあ熊さん、そうは思わないかい?』
 突然のご指名に熊が驚く。それを尻目に寅が続けた。
『こんな巡り合わせはめったにあるもんじゃない。まさに神様のお引合わせというもんだ。早速、今夜その天狗様を拝みに行こうじゃないか』
 万作は腕組みをして思案顔。どうも話がこんな具合に展開するのではないかと、うすうす予感していたが、事実その通りになってしまって、さぞかし天狗も迷惑がろうと困惑の体。熊はその万作の後ろに隠れるように退いた。

 結局、寅に押し切られて、夜10時、天神様の鳥居の前に集まる事とあいなった。やがて、夜も10時、生憎と月が雲間に隠れていての暗がりの中、3人が灯篭の明かりに寄集まるように顔を近寄せた。中の一人の顔が何かに包まれていて見分けが付かない。寅が声を掛けた。
『お前は誰だ?泥棒かい?』
『熊だよ』
『熊さんかい。その冠っているものは何だ?』
『手拭さ』
『手拭?どうしてそんなものをして来た?』
『寅さん、天狗に見られて、顔を覚えられては困るじゃないか』
『どうして、困るんだ?』
『祟り(たたり)にあったら困るだろう?』
 寅が顔を覗き込む。熊は手拭の中でびくついている。
『ふーむ成るほど、怖いのか。だが熊さんよ何もそう怖がる事はないよ。別に天狗を獲って食おうと言う訳じゃなし。賽銭こそ持ってこなかったが、天狗様に迷惑を掛ける事なんぞ少しも無いのだから、従って祟られる理由もない訳だ。まあ、顔を隠すのは好きにしたら良いだろう』
 熊の安心した様子を見て、万作が声を出した。
『では、行くとするか。暗いから足元に気をつけろ』
 3人は万作を先頭に鳥居を潜り、暗闇の石段を上り始める。かなり上った所で階段を右手に折れ山道に入る。人一人通れる程の曲がりくねった山道を上っていく。所々に石の地蔵が置かれている。後ろについている熊が、地蔵の前を通る度にぺこりと頭を下げては、何か口の中で呟いている。
 やがて、樹木が途切れた小高い見晴らしの良い場所に辿り着いた。丁度、雲間から十五夜の月が顔を出し始めたところ、眼下の樹海が月の光を浴びて、見る見るうちに青白く輝きだした。眼前の谷の向こう側に大きな岩が突き出ているのがくっきりと見えた。
『天狗岩だ!』

 3人はそこから尾根つたいに廻って進み、やがて天狗岩のすぐ脇の茂みの中に滑り込んだ。
『天狗はまだ来ていないようだ』
 と万作が落ち着き払って言いながら、持ってきた土瓶に茶葉を入れ、水筒の湯を注ぎ、角盆と大きな湯飲み茶碗を1ヶ取り出すと、茂みから出て行き土瓶と茶碗を角盆に乗せて天狗岩の上に置くと、一礼して引き返してきた。
『ここで待つとしよう。ここに隠れていれば、天狗に気付かれる心配はない』
 と万作は震えている熊に声を掛けた。熊は怖さと寒さとで奥歯をガチガチさせている。寅がせせら笑う。
 やがて3人は押し黙ったまま、暫くの時を過ごす。時の経過と共に最初の緊張感も緩んできて、大きな欠伸をしていた寅がついに口を切った。
『万作兄貴、どうやら無駄骨だったらしい。天狗の奴、俺達に怖気づいたのか、それとも、十五夜を忘れて寝ちまったに違いない』
 寅の言い終わらないその時、天狗岩の背後の潅木の茂みから何かがかき分けて来る音がした。
『出たか!』
 3人が身構えた。

 一陣の風と共に、言わずと知れた奇怪な格好をした天狗が天狗岩の上で仁王立ちにすっくと立った。茂みの3人からは後ろ姿しか見えないものの、白の装束にふり乱した白髪頭、真っ赤な顔に長い鼻、右手には飾りの付いた扇子を持ち、足元を見れば一枚歯の高下駄を履いている。
『間違いない。天狗だ!』
 と寅が言った。万作は大きな目で天狗を見つめたまま身じろぎしない。熊はがたがたと震え上がっている。天狗は人の気配を感じたのか、ふと顔を横に向けたが、そのまま気にする様子もなく、静かに天空の十五夜を眺め始めた。静寂が訪れた。月は煌々と山野を照らし、岩の上に立つ天狗の姿をくっきりと映し出している。この天狗、背丈はそれほど高くなく少々小ぶりで中肉中背。山伏姿の背中には羽根を付けているものの小さいもので、天空を飛び回れるとはとても思えない。全体の印象はどうみても鬼のような恐ろしさはなく、どこか親しみのある顔形、お姿である。
 やがて、天狗は足元に土瓶と茶碗のあることに気付いた様子。高下駄を履いたまま、天狗岩の上で胡坐(あぐら)をかいて座った。
『おい、天狗が茶を飲むぞ』
 と寅が言う。確かに天狗の仕草はそれらしい動きを始めた。まずは茶碗の茶を飲んだらしく、天狗の頭がゆっくりと上下に揺れた。その茶を飲む天狗の後姿に三人は、次第に怖さを忘れいつしか好意を抱き始めた様子である。
『万作兄貴、天狗様の飲むお茶だ。よほど良い茶を出したんだろな?』
 寅が聞く。
『いや、いつもの番茶だ』
『万作兄貴、よくまあ、そんなお茶を出したもんだ。あの天狗、味にうるさかったらどうするんだ?』
『おい寅さん、こんなところで俺のお茶にケチを付ける気かい?』
『いやなにね、口に合わない安物を飲ませたと言って、あの天狗に打ち首にでもなったら大変じゃないか?』
『いや、その心配は無用だ』
『無用?何故だ?』
『婆さんがいつも出していた茶と同じ奴を持ってきたからさ』
『そうかい、それなら安心だ。打ち首になる心配はない』
 熊が、この二人のやりとりを聞いていて、どうして安心なのか府に落ちず寅に聞いた。すると寅が、
『いいかい熊さん、お茶なんてものは、いつも飲んでるのが一番うまいんだよ。体が、まあ丁寧に言えばこの俺の五感がだ、いつも飲んでる茶に慣れっこになっちまって、いまさら新参者が入ってきても、おいそれと仲良くしてくれないんだよ。いくら上等の茶を飲ませたからって、俺の口に合わなけりゃそれまでの話って訳さ。今夜、万作兄貴の持ってきた茶なんてのは、正直言って天狗様に献上できるような品じゃない。そこいらで手に入る二束三文の番茶だ。それだって、それ見てみな、天狗は文句も言わずに飲んでいるじゃないか』
 この寅の説明に、熊が何となく納得した様子。万作は持参した茶をけなされているようで甚だ面白くない。しかし、確かに天狗は飲み干した茶碗に土瓶の茶を注いでは飲んでいる。
『な熊さん、不味いものなら、ああがぶがぶ飲めるもんじゃない。結構気に入っているんだよ』
 天狗は長時間、茶碗に注いでは飲み、月を眺めては飲んでいたが、やがて立ち上がると突き出た岩の突端に立った。
『何をするんだろう?まさか、遠吠えでもするんじゃあるまいな。仲間でも呼び集められたりしたら大変だ。逃げようにも逃げられなくなる』
 と寅が心配する。途端に熊が震えだす。当の天狗は何か腰の辺りをごそごそさせていたが、やがて咳払いを一つすると再び天を仰いだ。すると、何か水の音のようなものが伝わってきた。天狗岩の下の樹木がざわざわと鳴り出した。
『何だろう?』
 と三人が身を乗り出して覗き込む。すると、一条の水流が大きな弧を描いて勢いよく天狗岩の絶壁の谷底に向かって放射されているのが目に入ってきた。見る見る内にその水流は勢いを増し、しぶきは谷間に満ちて彩雲となり、月の光を浴びてきらきらと五色に輝き出した。
 この世とは思われない光景に呆然としていた三人であったが、やがて寅が驚嘆の声を上げた。
『あれは、小便だ。天狗の小便だ!』
『違いない』
 と万作が同じる。そのまま三人は黙って事の成行きを見守る。天狗の小便は長い時間続いた。
『どうしてあんなに長いんだ?』
 と熊が疑問を呈すると、万作が答えた。
『茶を飲み過ぎたのだ。茶はもともと利尿効果といって小便が近くなる効用があるのだ。小便を出すには打ってつけの飲み物なんだ。してみると、案外天狗も人の子かもしれん』
『へー、それであんなに』
 そんな話をしているところ、これまで風一つ無い穏やかな谷間に、小便に暖められて上昇気流が発生したのか、谷底から一陣の風が吹き上げてきた。その風が霧状となった天狗の小便を、茂みの三人めがけて浴びせかけて来た。
『万作兄貴、どうやら霧が出てきたようだ。十五夜がぼんやりしてきたから間違いない』
『いや、寅さん、そんなもんで済みそうも無い。見ろ、全身びっしょりだ』
 その声で三人がお互いの顔を見合すと、皆、顔中露の玉で光っている。
『小便だー!』
 熊が悲鳴と共に茂みから飛び出すと一目散に逃げ出した。もうこうなっては致し方なしとばかりに、寅が続き、万作が続く。
 走りながら万作が振返って天狗を見る。天狗は相変わらず長小便に余念がない。万作が一礼して二人を追った。
 やがて、行きがけに寄った見晴らしの良い高台に辿り着いた。息せき切った三人が一様に天狗岩を振返ると、其処には只天狗岩が月光に映えているばかり。天狗の姿はもうどこにもありませんでした。
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(第2章)味比べの始まり

 麗らかなある日のこと、いつものように万作のだだっ広い10畳間に3人が寄り集まっている。どこから寄せ集めてきたのか、素性の知れない雑多な茶器があちこちに散らばっている。
 万作の指図のもと、今日は急須に等量の茶葉を入れ、湯の温度を変えてみての味比べをしようという趣向である。
 早速万作が匙を右手に持ち、左手に茶缶を取り上げて、もったいぶった手つきで、茶葉を掬い上げては、形の不揃いな3個の急須に投入し始めた。寅と熊が固唾を呑んで見守っている。
『万作兄貴、それで同じ量だってことが解かるのかい?急須もずいぶん不揃いだが』
 寅が早速口を出した。
『そりゃー解かるとも、この小匙山盛1杯で3gと思ってほぼ間違いない。尤も、入れる茶が粉っぽかったり、がさっぽかったりすれば、そこんところは勘を働かして調整する必要はある。それがコツと言うもんだ。ただ、急須の3つは本来同じものを使うべきだが、生憎と持ち合わせていないので今日のところは了解願いたい』
 万作が少々もったいぶって答える。
『へー。でもね万作兄貴、三笠山の向こうの崖っぷちに、今にも倒れそうな茶工場があるのは熊さんも知っていると思うが、十日ほど前、そこんところの跡取り息子に、出来立ての茶を淹れてもらったんだが、どうもやり方が違う』
『どう違うのだ?』
『匙など使うのは面倒らしくて、右手でいきなり茶葉を掴み取って、握り締めたこぶしを緩めながら茶葉を落として行ったんだ。それで分量が解かると言うんだ。驚いたね。本当に間違いなく計れるのかって聞き直したら、間違い無いって言うんだ』
『成るほど。そりゃたいしたもんだ』
 万作があっさり茶工場の跡取り息子の技量を認めたので、この話は打ち止めとなった。そんな時に、台所のやかんが沸騰したと見えてカタカタと蓋の音が鳴り出した。
『熊さん、湯が沸いたようだから、こっちに持ってきてくれないかい』
 熊が、気を利かして土瓶敷きまで持ってきて、畳の上に敷き、神妙な顔つきでやかんを載せた。それを待って、万作が口を切った。
『さて、お集まりの皆の衆、御用繁多の折、よくぞこのむさ苦しき拙宅にわざわざおいで下さった。』
 寅と、熊があっけに取られて口をぽかんと開けた。万作は続けて、
『本日は、手始めにまずお湯の温度によっていかに茶の味が変るものかを実験し、後学の資となるべきものを残して行きたいと思う。この際、お二方の秀でたる味覚を存分に発揮して頂ければ望外の喜びである』
 たまりかねて、寅さんが
『万作兄貴、冗談ぢゃない。秀でたる味覚だなんて、どこを探したって出てくるもんじゃあない』
『心配するな。事の始まりの単なる挨拶だ。で、挨拶も済んだから、早速実験に取り掛かろう。茶を飲むに実験なんぞ馬鹿な骨頂と思えなくも無いが、これも人の為と思えばこそ、多少の我慢もしてもらわなくちゃいかん。ここの3つの急須に等量の茶葉を入れたから、それぞれに水と冷ました湯と熱湯の湯を注いで味の違いを見てみたい。ついでながら申し加えておくが、今日のお茶っ葉はいつものお前達に飲ませているお茶とは物が違う。高いお茶を特別に入手用意したので、そこのところは重々念頭において実験に臨んで欲しい』
 と万作が勿体ぶったが二人はそ知らぬふりである。かくして、実験が開始された。既に等量の茶葉が用意されているので、次は等量の水と湯が必要である。すでに湯は用意されている。水を汲んでくるように熊が命じられた。
 万作がいつも使用している飲み水は、裏山から清水を引いる天然の水で、カルキなどの人口除菌剤などとは無縁のものである。しかも一晩水瓶に汲み置きしているから、茶を淹れる水としては申し分ない。その水瓶の水を熊が柄杓ですくってどんぶり(大きい茶碗)に注ぐと忍び足で持ってきた。ところが、熊の必死な努力にもかかわらず、どんぶりの中の水は歩くたびに揺れを大きくして、寅の座っている後ろに達した時には限界に達して、終にどんぶりから勢いよく溢れ出てしまった。しかも悪い事にその溢れた水が寅の首筋に落ちて、その背中の中に滑り込むように流れ落ちていった。
『ひゃー』
 と寅が悲鳴を上げるや、両腕を一瞬冷たい背中に回そうとした。その時寅の右腕が恐る恐る歩いてきた熊の太腿をなぎ倒すようにぶつけてしまった。熊は両手でどんぶりをもったまま、顔から先につんのめりに倒れていった。ドスンと鈍い音がして、だだ広い部屋が一瞬静寂に包まれた。暫くして熊がうめき声と共に上体を起こすと、後ろの板壁に寄りかかった。その熊の顔を万作が心配そうに覗き見る。熊の顔はぐっと硬直していて赤鬼のような形相である。よほど痛いと見えて、見開いた目に涙が滲んでいる。おまけに額には畳の目の跡がくっきりと浮き出ている。
『顔から突っ込んだんだな。凄い顔だ。さぞかし痛いことだろう』
 万作と寅が気の毒な熊を慰めたが、同時に滑稽な出来事に出くわしたと笑いを押し殺している様子でもある。
『大丈夫かい?』
 万作がようやく口を開いたが、熊はただ歯を食いしばっているだけである。とても口の利けそうもないことを察してか寅が、
『熊さん、気にするこたぁない。水は俺に任してくんな』
と土瓶を持って台所に向かった。

 やがて寅が水を汲んでくると作業が再開された。大茶碗2ヶに等量の水と湯が注がれた。暫くして万作が湯の入った方の大茶碗を取り上げて、
『このくらい冷めれば良かろう。二人も触って見ると良い。60度ぐらいに下がっている筈だ』
 二人が交互に茶碗を持ち温度を確認する。まだ結構熱い。
『さて、今から3人同時に茶葉の入っている急須に水と湯を入れをなくてはならんが、寅さんは大茶碗の水を入れてくれ。熊さんは冷ました湯を入れてくれ。熱湯の方は先程わしが量を確認しておいたかのでこちらに任せてくれ。ではいくぞ。それよーい始め』
 3人がそれぞれの急須に担当の水、湯を注ぐ。
『蓋をして』
 万作が叫ぶ。3人が蓋をする。
『では、今から50数えるから、50になったら、急須の中に注いでくれ。では、一つ、二つ、三つ・・・』
 万作が大きな声で数を数えだした。しかも、手拍子を添えての時間測定である。ところが、この馬鹿でかい声と手拍子が熊の痛々しい顔めがけて響いてきた。居た堪れない様子の熊には気の毒であったが、万作は最後まで一本調子を守った。
『49の50だ。それ急須に入れろ』
 万作が指示のもとに、3人がめいめいの急須に注ぐ。
『最後の一滴まで、しずくが落ちて来なくなるまで我慢するんだ』
 万作の檄が飛ぶ。やがて、3人の急須からは1滴も落ちてこなくなった。
『ふー』
 とため息を漏らした者が居る。熊は顔を真っ赤にしている。
『お茶を淹れるのに、こんなに大変な思いをしなくちゃならんのかい』
 寅が文句を言った。万作は意に介せず、
『寅さんよ。ここまで来ればもう大丈夫だ。山を越したようなもの。これから楽になるよ。あとはいよいよ飲むだけだ。そこいらに小さな茶碗を掻き集めてきておいたから、好みの茶碗を取って飲み比べてくんな』
 寅が見ると、確かにたくさんの茶碗が散らばっている。縁の欠けたのもあれば、どうみても酒のぐい飲みに違いないと思えるものもある。しかも、良く洗ってあるのか疑わしいものばかりだ。それでも、万作の勧めに応じて、水で淹れた茶を急須から注いで飲んでみる。少しも茶の味がしない。色も全く出ていない。
『何だこれは、単なる水じゃぁないか』
 確かに味もそっけもない只の水。寅の感想に万作も頷く。熊も納得である。
『万作兄貴、大体茶を水で淹れるってぇのが気に食わない。昔っから茶は熱いのが相場だ。俺ん所の向かいの爺さんなんか、大きな湯飲みに熱い茶をたっぷり入れてふーふー言いながら飲んでいたもんだ。こんな湯気も立たないような茶を飲んだからって飲んだ気はしないってもんだ』
 まくし立てる寅の言う事も尤もだと思いつつも、万作が次の冷ました湯で淹れた茶を勧めた。
『どうだい寅さん。こっちの方は旨味が程よく出て、なかなか良い味じゃないかい?』
 と万作が喜んで言う。それを聞いた寅はとんでもないと言わんばかりに、
『万作兄貴、とても納得できる味じゃない。さっきの水のには驚いたが、これも物足りなくていけない』
『そうかい。熊さんはどうだい?』
 と意見を促された熊さん、まんざらでもない味であるという様子であったが、寅に反旗を翻す訳にもいかず無言。
『では、最後の熱湯で入れた茶を飲もう』
 万作が冷めないうちにと先に進める。その万作が一口飲むや、その渋さにぐっと詰まったのだが、こらえて寅を見る。
『これは美味い。茶はこれでなくちゃいけない』
 と寅が大声を上げて賛美した。万作は寅の言う事が信用できないというような目付きである。熊を見ると、こちらは熱い茶の湯気で畳目の付いた額を刺激され、更に渋味が口に浸みると見えて、硬く押し黙っている。
『どうやら、寅さんは渋いのが好みのようだ。それはそれで結構だが、茶には甘味と言うか旨味と言うか、ともかく、渋いのとは違った味も楽しめなくては通とは言えないから、ひとつそれを出してみようじゃないか』
 と万作が言い出すと、通ではないと思われるのも癪だとばかりに寅が、
『いいとも、万作兄貴の思うとおりにやってくんな。試しに飲んでやろうじゃないか』
『さっきの水で入れた奴だが、あれは出し方が全く駄目なやり方だったんだ。今から淹れるから見ていな。先日、里の『弁天庵』にわざわざ行って教わってきたから間違いない。それを披露するとしよう』
 それを聞いた寅と熊が真顔になった。
 万作は洗ってきた急須に茶葉を先程の量の3倍程を投入し、水の量の方はというと前回の半分以下の量を注いで蓋をした。
『ここで5分程置きたいのだが、さっきやった手拍子は熊さんの顔の傷に障りがあるようだったから止める事として、あそこの柱時計で5分経つのを待つことにしよう』
 長い時間が過ぎて、薄汚れた柱時計が5分を経過した。おもむろに万作が3つの茶碗に急須からしたたり落ちる茶を注ぎ分けた。力まかせに何度も急須を振り下ろしたにも関わらず、急須から搾り出た茶の量は極めて少量であった。
『これっぱかしかい?』
 と寅が驚く。
『そうだ、茶の葉が吸い取ってしまったのだよ。そこでだ、残ったこの少ないお茶を飲むには、それなりの飲み方がある。寅さんみたいに威勢よく一気に飲んでしまうのは良くない。量が少ない分、大事に飲まなければ罰が当たる。そっと茶を舌の上に乗せるように、口に含むようにしなければ駄目だ』
 万作が先にそれとなくやってみせる。二人が続く。茶を口に含んだ二人が一瞬目を合わせた。
『ひょー、これは甘い!』
 と寅が言う。熊も驚きの顔である。
『とまあ、こんなものだ』
 と万作。しかし、ここでにわか仕立ての蘊蓄などを言って、寅の茶々にやり込められるのも具合が悪いと思ったか、今日の実験はこの位にして終るのが良さそうだと悟ると、いきなり重々しい声で言った。
『諸君、ご苦労であった。実験は大成功である!』
 突然の閉会の辞に、寅と熊があっけに取られた。始まりの挨拶とはえらい違いだ。それでも、これで実験から解放されると理解した二人が、ようやく笑顔を取戻すと、後片付けもそそくさと山間の谷間を駆け降りて行きました。
posted by たろう at 12:22| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(第1章)『底抜けお茶談義』の始まり始まり!

 ある所に万作(まんさく)と名乗る男が、雨露を凌ぐだけという小さな一軒家に住んでおりました。この男たいした仕事も持たず、裏山の小さな畑に芋や大根や人参などを作って暮らしておりました。さしたる趣味も持たない男でしたが、どういう訳か意外にもパソコンだけには興味を示し、毎日を只画面の前に座っているという呑気な生活を過ごしておりました。
 ある日、この男に『ブログ』投稿を進める者が現れまして、どうした経緯か仔細は不明ながら万作氏投稿の安請け合いをしてしまい、元来が真面目なこの男、日記など付ける必要もない生活にどうしたものかと、苦しみ悩み始めることとあいなりました。そんな中ふと、傍らに置いてあった湯飲み茶碗が目に入ると、やにわにそれを手に取ると、六畳間の座敷の真ん中にドッカと座るや目の前に茶碗を置いて、腕を組んで盛んに考え始めたのであります。

 そこへ、近くに住む寅(とら)と熊(くま)という仲間がやってきて、庭先より万作を見つけると寅が声をかけた。
「万作兄貴どうした。そんな難しい顔をして。湯飲み茶碗と睨めっこなどして何か面白いことでもあるのかい。それともつまらんものでも飲んで腹でも痛めたか」
 万作、二人に気付くと天の助けとばかりに喜んで、
「ちょうど良いところに来てくれた。お前達二人に頼みがある。ちょっと聞いてはくれまいか」
 寅が、
「いいとも何でも言ってくんな。人にものを頼むにはそれなりの心付が必要と聞くが、回りを見れば何にもない事は先刻承知。請求するのも気が引ける。この際何にも言わずに引受けよう。熊さんどうだい一肌脱ごうじゃないか」
 熊がうなずく。それを見て寅が、
「話は決まった。それで何をする」
 万作は事の経緯をかいつまんで説明する。要するにパソコンで日記を付けなければならなくなった次第を述べたのであるが、聞いていた二人の顔が青ざめてきた。たまりかねた寅が、
「兄貴ちょっと待った。一つだけ条件を付けるのを忘れた」
「条件?何だねそれは」
 と万作が二人の顔を覗き込む。
「兄貴には申し訳ないが、そこのパソコンをいじるのだけは御免こうむりたい。俺達には過ぎた代物だ。見ているだけで気が狂う。どうかこの話はなかった事にしてくれ」
 万作はそれを聞いて高笑いすると、
「お前達に何時パソコンの達人になれなどと言った。心配するには及ばない。お前達に頼みたいのは、それ、目の前に湯飲み茶碗があるだろう。その茶を飲んで旨いか不味いかを言ってくれさえすればそれで良いのだ」
 合点の行かない二人の様子に、万作は衣を正し神妙な顔付きになって言葉を続けた。

「昨年の暮れ裏山の婆さん何を思ったか、この世に飽いたらしく急にぽっくり行っちまったのはお前達も知っての通りだ。寅さん熊さん、二人で婆さんとこの次郎柿を盗み食いしてはよく追い掛け回されていたじゃあないか。そんなにくまれ婆さんも亡くなってみればおかしなもので、この辺りも随分寂しくなっちまった。何の因果か家に一番近かった縁で、婆さんとはよくやりあったもんだが、身近だった俺にしてみれば寂しさもまた人一倍というところだ。で、その婆さんだが俺が行くと必ず茶を出してくれた。婆さんのことだからそんなに上等なお茶など出す筈はないと睨んでいたが、それでもいつも不思議と美味かった。何故だかここんところが今もって解らない。今更死んだ婆さんのことを詮索しても始まらんが、あの旨い茶にありつけた者としてみれば、そう婆さんを悪くばかりいう訳にもいかんというのが今の俺の心境だ。まあそんな訳で、別に婆さんの供養というわけでもないが、さっきも言った通り、これから俺は人一倍高尚な人間に生まれ変わって、お節介にも日ごとの出来事をこの世に向かって発信しようってんだが、ここまでは我慢できるとして、その先の見通しが全く立っていない。発信するものが無いのだ。取り得なんぞどこを探したって出てくる筈もない俺にとって、この思い入れはちょっと荷が重過ぎたと気付いたのも後の祭りで、裏山の楠木にでも登ってこの身を隠そうかなどと考えたりもしたが、残念ながら長期戦には向いていない。風邪でも引いた日にゃあ馬鹿をみる。第一人に褒められるような体裁(ていさい)の良い話じゃあない。どうしたもんかと頭を抱えていると、急場凌ぎに浮かんできたのが、この婆さんのお茶なのさ。そこへうまい具合にお前たち二人がやってきたという次第だ」
 調子づいて立て続けに喋る万作に、寅の顔が次第に硬直してきた。熊は心配そうに万作を見守っている。万作は意に関せず更に続けて、
「つまりだ、婆さんが俺にしたことを、今度は俺がお前たちにしてやろうって話さ。別に婆さんの敵を討とうなどと考えているんじゃあないから、安心して大船に乗ったつもりで受けてくれ。それに、夢見心地にも茶を飲むお前達の姿はまんざら悪いものではない。天狗山の狐や狸もきっと羨ましがるに違いない。で、そんな所を掻い摘んで『ブログ』とやらに載せれば、問題は一挙に解決でこんなに目出度い話はないではないか。どんなもんだろう?うまい手を考え付いたとは思わないかい?」
 と万作の覗き込んだ二人の顔は、万作の一方的な企みにおおいに不満気げである。天狗山に住む狐と狸に比べられ、恨めしそうな二人の眼(まなこ)に出会った万作は、ようやく恩着せがましい物言いをしている自分に気が付いた。一転、慌てて二人の機嫌を取り始めて言った。
「いや何もお前たちに恩を売ろうってことじゃあない。確かに大きなお世話に違いなかろうが、だからと言って、お前達を騙晦(だまくら)かして、ことさら俺だけが人目に付こうなどという欲に目が眩んだ訳でもない。まあ、要するにだ、一人で茶なんぞ飲んで屁でもない薀蓄(うんちく)を並べたてたところで面白くも何ともないじゃあないか。それよりも、三人で茶でも飲みながら好きなことを言ってた方がよほど暇つぶしになってご利益があるってもんだ。それに、どう考えても、そこにある出がらしの番茶しか飲んで来なかったこの俺が、一人で味見などできる話じゃあない。ここんところは、是非二人の力を貸してもらうしか他に手はないんだよ」
 縮んでいた寅と熊の姿勢が急に勢い付いてきた。寅がふんぞり返って言った。
「万作兄い。そんな水臭いことをいうには及ばないよ。茶を飲むくらいわけのない話だ。それに、茶には饅頭が付きものって話は聞いたことはあるが、茶を飲みすぎて早死したって話は聞いたことはない。おおいに協力するつもりだから安心しな」
 それを聞いて万作は、
「熊さんも承知してくれたかい?」
 いつになく自信に満ちた熊がコクリと首を縦に振った。

 既に陽はとっぷりと暮れて、万作の家を出た二人の背を真んまるの十五夜の月が照らしている。珍しく二人が黙って歩いていたが、小高い丘の向こうに小さな山間(やまあい)の町の明かりが見えて来ると、寅が口を開いた。
「熊さんよ。当てにならん万作兄貴の話で、先のことはどうなるか解らんが、出来るだけのことはやってみるかい?」
 熊さんが十五夜の月を仰いでニコリと微笑んだ。寅さんもまた了解して頷(うなづ)いたのでした。

 
posted by たろう at 12:00| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする