ある日、いつものように熊を従えてやってきた寅が、低い声で万作に話しかけた。
『万作兄貴、先日熊さんと一緒に市場に出かけたんだが、そこで、天狗山に本当の天狗が住んでいるって話で持ちきりだった。この話、万作兄貴は知ってるかい?市場の連中、いつもは欲の皮を突っ張ってるくせに、今は商売もそっちのけって有様さ』
万作はあまり気乗りしない顔であったが、それでもしぶしぶと口を開いて言った。
『まあ、知らないわけでもないが』
『じゃあ、教えてくんな。おおかたの話では、どこからか流れてきた大男が、今では廃寺となっている梵釈寺に住み込んで、時折お参りに来る信心者の賽銭をかすみ取っている。それが天狗の正体に違いないと言っているんだが、それも、見たものが居るようで居ない。そんな賽銭泥棒が居たらふん捕まえてやるんだが。かといって、天狗が本当に居るとも思えない』
『わしも見たわけではないので何とも言えないが、ただ、裏山の婆さんがいつも、お天狗様が見守っていて下さるので有難い、と言っていた。ある時、本当に天狗は居るのかいと聞いてみると、確かに居ると言ったんだ』
『へー、それで』
『婆さんがお茶好きなことは、前にも話したことがあるので知っていると思うが、その婆さん、天気の良い日には必ず天狗岩まで登って行ってはお茶をあげていたそうだ』
『あの天狗山の東側の崖っぷちに突き出ているでっかい岩のことかい?あんなところまで登って行って?』
『そうだ。なかなかのもんだ。その健脚婆さん、岩の上にお茶を淹れた茶碗を置いては拝んで帰ってきていたそうだ。』
『へー、お茶をねぇ。天狗を喜ばすにはお神酒を出した方がよさそうに思うが。まあ、何をやろうが婆さんの勝手だ。で天狗が出てきたのかい?』
『いや、婆さんの話では、翌日行くと、あげたお茶はそのまま茶碗に残っているのだが、只、十五夜の翌日だけは必ず茶碗が空っぽになっていたそうだ』
『へー、それは不思議だ』
『婆さんは、お天狗様が飲んだに違いないと言っていたが、特別に確かめようとは思わなかったらしくて、天狗の姿を拝む事もなく、あの世に行っちまったんだ』
『成る程、すると婆さんも天狗を見た事が無かった。当然、万作兄貴も話を聞いただけで見た事は無い訳だ』
と寅が何だか妙な野心を剥き出しにしてきて言った。
『今夜は丁度十五夜だ。なんとまあ良いタイミング。なあ熊さん、そうは思わないかい?』
突然のご指名に熊が驚く。それを尻目に寅が続けた。
『こんな巡り合わせはめったにあるもんじゃない。まさに神様のお引合わせというもんだ。早速、今夜その天狗様を拝みに行こうじゃないか』
万作は腕組みをして思案顔。どうも話がこんな具合に展開するのではないかと、うすうす予感していたが、事実その通りになってしまって、さぞかし天狗も迷惑がろうと困惑の体。熊はその万作の後ろに隠れるように退いた。
結局、寅に押し切られて、夜10時、天神様の鳥居の前に集まる事とあいなった。やがて、夜も10時、生憎と月が雲間に隠れていての暗がりの中、3人が灯篭の明かりに寄集まるように顔を近寄せた。中の一人の顔が何かに包まれていて見分けが付かない。寅が声を掛けた。
『お前は誰だ?泥棒かい?』
『熊だよ』
『熊さんかい。その冠っているものは何だ?』
『手拭さ』
『手拭?どうしてそんなものをして来た?』
『寅さん、天狗に見られて、顔を覚えられては困るじゃないか』
『どうして、困るんだ?』
『祟り(たたり)にあったら困るだろう?』
寅が顔を覗き込む。熊は手拭の中でびくついている。
『ふーむ成るほど、怖いのか。だが熊さんよ何もそう怖がる事はないよ。別に天狗を獲って食おうと言う訳じゃなし。賽銭こそ持ってこなかったが、天狗様に迷惑を掛ける事なんぞ少しも無いのだから、従って祟られる理由もない訳だ。まあ、顔を隠すのは好きにしたら良いだろう』
熊の安心した様子を見て、万作が声を出した。
『では、行くとするか。暗いから足元に気をつけろ』
3人は万作を先頭に鳥居を潜り、暗闇の石段を上り始める。かなり上った所で階段を右手に折れ山道に入る。人一人通れる程の曲がりくねった山道を上っていく。所々に石の地蔵が置かれている。後ろについている熊が、地蔵の前を通る度にぺこりと頭を下げては、何か口の中で呟いている。
やがて、樹木が途切れた小高い見晴らしの良い場所に辿り着いた。丁度、雲間から十五夜の月が顔を出し始めたところ、眼下の樹海が月の光を浴びて、見る見るうちに青白く輝きだした。眼前の谷の向こう側に大きな岩が突き出ているのがくっきりと見えた。
『天狗岩だ!』
3人はそこから尾根つたいに廻って進み、やがて天狗岩のすぐ脇の茂みの中に滑り込んだ。
『天狗はまだ来ていないようだ』
と万作が落ち着き払って言いながら、持ってきた土瓶に茶葉を入れ、水筒の湯を注ぎ、角盆と大きな湯飲み茶碗を1ヶ取り出すと、茂みから出て行き土瓶と茶碗を角盆に乗せて天狗岩の上に置くと、一礼して引き返してきた。
『ここで待つとしよう。ここに隠れていれば、天狗に気付かれる心配はない』
と万作は震えている熊に声を掛けた。熊は怖さと寒さとで奥歯をガチガチさせている。寅がせせら笑う。
やがて3人は押し黙ったまま、暫くの時を過ごす。時の経過と共に最初の緊張感も緩んできて、大きな欠伸をしていた寅がついに口を切った。
『万作兄貴、どうやら無駄骨だったらしい。天狗の奴、俺達に怖気づいたのか、それとも、十五夜を忘れて寝ちまったに違いない』
寅の言い終わらないその時、天狗岩の背後の潅木の茂みから何かがかき分けて来る音がした。
『出たか!』
3人が身構えた。
一陣の風と共に、言わずと知れた奇怪な格好をした天狗が天狗岩の上で仁王立ちにすっくと立った。茂みの3人からは後ろ姿しか見えないものの、白の装束にふり乱した白髪頭、真っ赤な顔に長い鼻、右手には飾りの付いた扇子を持ち、足元を見れば一枚歯の高下駄を履いている。
『間違いない。天狗だ!』
と寅が言った。万作は大きな目で天狗を見つめたまま身じろぎしない。熊はがたがたと震え上がっている。天狗は人の気配を感じたのか、ふと顔を横に向けたが、そのまま気にする様子もなく、静かに天空の十五夜を眺め始めた。静寂が訪れた。月は煌々と山野を照らし、岩の上に立つ天狗の姿をくっきりと映し出している。この天狗、背丈はそれほど高くなく少々小ぶりで中肉中背。山伏姿の背中には羽根を付けているものの小さいもので、天空を飛び回れるとはとても思えない。全体の印象はどうみても鬼のような恐ろしさはなく、どこか親しみのある顔形、お姿である。
やがて、天狗は足元に土瓶と茶碗のあることに気付いた様子。高下駄を履いたまま、天狗岩の上で胡坐(あぐら)をかいて座った。
『おい、天狗が茶を飲むぞ』
と寅が言う。確かに天狗の仕草はそれらしい動きを始めた。まずは茶碗の茶を飲んだらしく、天狗の頭がゆっくりと上下に揺れた。その茶を飲む天狗の後姿に三人は、次第に怖さを忘れいつしか好意を抱き始めた様子である。
『万作兄貴、天狗様の飲むお茶だ。よほど良い茶を出したんだろな?』
寅が聞く。
『いや、いつもの番茶だ』
『万作兄貴、よくまあ、そんなお茶を出したもんだ。あの天狗、味にうるさかったらどうするんだ?』
『おい寅さん、こんなところで俺のお茶にケチを付ける気かい?』
『いやなにね、口に合わない安物を飲ませたと言って、あの天狗に打ち首にでもなったら大変じゃないか?』
『いや、その心配は無用だ』
『無用?何故だ?』
『婆さんがいつも出していた茶と同じ奴を持ってきたからさ』
『そうかい、それなら安心だ。打ち首になる心配はない』
熊が、この二人のやりとりを聞いていて、どうして安心なのか府に落ちず寅に聞いた。すると寅が、
『いいかい熊さん、お茶なんてものは、いつも飲んでるのが一番うまいんだよ。体が、まあ丁寧に言えばこの俺の五感がだ、いつも飲んでる茶に慣れっこになっちまって、いまさら新参者が入ってきても、おいそれと仲良くしてくれないんだよ。いくら上等の茶を飲ませたからって、俺の口に合わなけりゃそれまでの話って訳さ。今夜、万作兄貴の持ってきた茶なんてのは、正直言って天狗様に献上できるような品じゃない。そこいらで手に入る二束三文の番茶だ。それだって、それ見てみな、天狗は文句も言わずに飲んでいるじゃないか』
この寅の説明に、熊が何となく納得した様子。万作は持参した茶をけなされているようで甚だ面白くない。しかし、確かに天狗は飲み干した茶碗に土瓶の茶を注いでは飲んでいる。
『な熊さん、不味いものなら、ああがぶがぶ飲めるもんじゃない。結構気に入っているんだよ』
天狗は長時間、茶碗に注いでは飲み、月を眺めては飲んでいたが、やがて立ち上がると突き出た岩の突端に立った。
『何をするんだろう?まさか、遠吠えでもするんじゃあるまいな。仲間でも呼び集められたりしたら大変だ。逃げようにも逃げられなくなる』
と寅が心配する。途端に熊が震えだす。当の天狗は何か腰の辺りをごそごそさせていたが、やがて咳払いを一つすると再び天を仰いだ。すると、何か水の音のようなものが伝わってきた。天狗岩の下の樹木がざわざわと鳴り出した。
『何だろう?』
と三人が身を乗り出して覗き込む。すると、一条の水流が大きな弧を描いて勢いよく天狗岩の絶壁の谷底に向かって放射されているのが目に入ってきた。見る見る内にその水流は勢いを増し、しぶきは谷間に満ちて彩雲となり、月の光を浴びてきらきらと五色に輝き出した。
この世とは思われない光景に呆然としていた三人であったが、やがて寅が驚嘆の声を上げた。
『あれは、小便だ。天狗の小便だ!』
『違いない』
と万作が同じる。そのまま三人は黙って事の成行きを見守る。天狗の小便は長い時間続いた。
『どうしてあんなに長いんだ?』
と熊が疑問を呈すると、万作が答えた。
『茶を飲み過ぎたのだ。茶はもともと利尿効果といって小便が近くなる効用があるのだ。小便を出すには打ってつけの飲み物なんだ。してみると、案外天狗も人の子かもしれん』
『へー、それであんなに』
そんな話をしているところ、これまで風一つ無い穏やかな谷間に、小便に暖められて上昇気流が発生したのか、谷底から一陣の風が吹き上げてきた。その風が霧状となった天狗の小便を、茂みの三人めがけて浴びせかけて来た。
『万作兄貴、どうやら霧が出てきたようだ。十五夜がぼんやりしてきたから間違いない』
『いや、寅さん、そんなもんで済みそうも無い。見ろ、全身びっしょりだ』
その声で三人がお互いの顔を見合すと、皆、顔中露の玉で光っている。
『小便だー!』
熊が悲鳴と共に茂みから飛び出すと一目散に逃げ出した。もうこうなっては致し方なしとばかりに、寅が続き、万作が続く。
走りながら万作が振返って天狗を見る。天狗は相変わらず長小便に余念がない。万作が一礼して二人を追った。
やがて、行きがけに寄った見晴らしの良い高台に辿り着いた。息せき切った三人が一様に天狗岩を振返ると、其処には只天狗岩が月光に映えているばかり。天狗の姿はもうどこにもありませんでした。

