麗らかなある日のこと、いつものように万作のだだっ広い10畳間に3人が寄り集まっている。どこから寄せ集めてきたのか、素性の知れない雑多な茶器があちこちに散らばっている。
万作の指図のもと、今日は急須に等量の茶葉を入れ、湯の温度を変えてみての味比べをしようという趣向である。
早速万作が匙を右手に持ち、左手に茶缶を取り上げて、もったいぶった手つきで、茶葉を掬い上げては、形の不揃いな3個の急須に投入し始めた。寅と熊が固唾を呑んで見守っている。
『万作兄貴、それで同じ量だってことが解かるのかい?急須もずいぶん不揃いだが』
寅が早速口を出した。
『そりゃー解かるとも、この小匙山盛1杯で3gと思ってほぼ間違いない。尤も、入れる茶が粉っぽかったり、がさっぽかったりすれば、そこんところは勘を働かして調整する必要はある。それがコツと言うもんだ。ただ、急須の3つは本来同じものを使うべきだが、生憎と持ち合わせていないので今日のところは了解願いたい』
万作が少々もったいぶって答える。
『へー。でもね万作兄貴、三笠山の向こうの崖っぷちに、今にも倒れそうな茶工場があるのは熊さんも知っていると思うが、十日ほど前、そこんところの跡取り息子に、出来立ての茶を淹れてもらったんだが、どうもやり方が違う』
『どう違うのだ?』
『匙など使うのは面倒らしくて、右手でいきなり茶葉を掴み取って、握り締めたこぶしを緩めながら茶葉を落として行ったんだ。それで分量が解かると言うんだ。驚いたね。本当に間違いなく計れるのかって聞き直したら、間違い無いって言うんだ』
『成るほど。そりゃたいしたもんだ』
万作があっさり茶工場の跡取り息子の技量を認めたので、この話は打ち止めとなった。そんな時に、台所のやかんが沸騰したと見えてカタカタと蓋の音が鳴り出した。
『熊さん、湯が沸いたようだから、こっちに持ってきてくれないかい』
熊が、気を利かして土瓶敷きまで持ってきて、畳の上に敷き、神妙な顔つきでやかんを載せた。それを待って、万作が口を切った。
『さて、お集まりの皆の衆、御用繁多の折、よくぞこのむさ苦しき拙宅にわざわざおいで下さった。』
寅と、熊があっけに取られて口をぽかんと開けた。万作は続けて、
『本日は、手始めにまずお湯の温度によっていかに茶の味が変るものかを実験し、後学の資となるべきものを残して行きたいと思う。この際、お二方の秀でたる味覚を存分に発揮して頂ければ望外の喜びである』
たまりかねて、寅さんが
『万作兄貴、冗談ぢゃない。秀でたる味覚だなんて、どこを探したって出てくるもんじゃあない』
『心配するな。事の始まりの単なる挨拶だ。で、挨拶も済んだから、早速実験に取り掛かろう。茶を飲むに実験なんぞ馬鹿な骨頂と思えなくも無いが、これも人の為と思えばこそ、多少の我慢もしてもらわなくちゃいかん。ここの3つの急須に等量の茶葉を入れたから、それぞれに水と冷ました湯と熱湯の湯を注いで味の違いを見てみたい。ついでながら申し加えておくが、今日のお茶っ葉はいつものお前達に飲ませているお茶とは物が違う。高いお茶を特別に入手用意したので、そこのところは重々念頭において実験に臨んで欲しい』
と万作が勿体ぶったが二人はそ知らぬふりである。かくして、実験が開始された。既に等量の茶葉が用意されているので、次は等量の水と湯が必要である。すでに湯は用意されている。水を汲んでくるように熊が命じられた。
万作がいつも使用している飲み水は、裏山から清水を引いる天然の水で、カルキなどの人口除菌剤などとは無縁のものである。しかも一晩水瓶に汲み置きしているから、茶を淹れる水としては申し分ない。その水瓶の水を熊が柄杓ですくってどんぶり(大きい茶碗)に注ぐと忍び足で持ってきた。ところが、熊の必死な努力にもかかわらず、どんぶりの中の水は歩くたびに揺れを大きくして、寅の座っている後ろに達した時には限界に達して、終にどんぶりから勢いよく溢れ出てしまった。しかも悪い事にその溢れた水が寅の首筋に落ちて、その背中の中に滑り込むように流れ落ちていった。
『ひゃー』
と寅が悲鳴を上げるや、両腕を一瞬冷たい背中に回そうとした。その時寅の右腕が恐る恐る歩いてきた熊の太腿をなぎ倒すようにぶつけてしまった。熊は両手でどんぶりをもったまま、顔から先につんのめりに倒れていった。ドスンと鈍い音がして、だだ広い部屋が一瞬静寂に包まれた。暫くして熊がうめき声と共に上体を起こすと、後ろの板壁に寄りかかった。その熊の顔を万作が心配そうに覗き見る。熊の顔はぐっと硬直していて赤鬼のような形相である。よほど痛いと見えて、見開いた目に涙が滲んでいる。おまけに額には畳の目の跡がくっきりと浮き出ている。
『顔から突っ込んだんだな。凄い顔だ。さぞかし痛いことだろう』
万作と寅が気の毒な熊を慰めたが、同時に滑稽な出来事に出くわしたと笑いを押し殺している様子でもある。
『大丈夫かい?』
万作がようやく口を開いたが、熊はただ歯を食いしばっているだけである。とても口の利けそうもないことを察してか寅が、
『熊さん、気にするこたぁない。水は俺に任してくんな』
と土瓶を持って台所に向かった。
やがて寅が水を汲んでくると作業が再開された。大茶碗2ヶに等量の水と湯が注がれた。暫くして万作が湯の入った方の大茶碗を取り上げて、
『このくらい冷めれば良かろう。二人も触って見ると良い。60度ぐらいに下がっている筈だ』
二人が交互に茶碗を持ち温度を確認する。まだ結構熱い。
『さて、今から3人同時に茶葉の入っている急須に水と湯を入れをなくてはならんが、寅さんは大茶碗の水を入れてくれ。熊さんは冷ました湯を入れてくれ。熱湯の方は先程わしが量を確認しておいたかのでこちらに任せてくれ。ではいくぞ。それよーい始め』
3人がそれぞれの急須に担当の水、湯を注ぐ。
『蓋をして』
万作が叫ぶ。3人が蓋をする。
『では、今から50数えるから、50になったら、急須の中に注いでくれ。では、一つ、二つ、三つ・・・』
万作が大きな声で数を数えだした。しかも、手拍子を添えての時間測定である。ところが、この馬鹿でかい声と手拍子が熊の痛々しい顔めがけて響いてきた。居た堪れない様子の熊には気の毒であったが、万作は最後まで一本調子を守った。
『49の50だ。それ急須に入れろ』
万作が指示のもとに、3人がめいめいの急須に注ぐ。
『最後の一滴まで、しずくが落ちて来なくなるまで我慢するんだ』
万作の檄が飛ぶ。やがて、3人の急須からは1滴も落ちてこなくなった。
『ふー』
とため息を漏らした者が居る。熊は顔を真っ赤にしている。
『お茶を淹れるのに、こんなに大変な思いをしなくちゃならんのかい』
寅が文句を言った。万作は意に介せず、
『寅さんよ。ここまで来ればもう大丈夫だ。山を越したようなもの。これから楽になるよ。あとはいよいよ飲むだけだ。そこいらに小さな茶碗を掻き集めてきておいたから、好みの茶碗を取って飲み比べてくんな』
寅が見ると、確かにたくさんの茶碗が散らばっている。縁の欠けたのもあれば、どうみても酒のぐい飲みに違いないと思えるものもある。しかも、良く洗ってあるのか疑わしいものばかりだ。それでも、万作の勧めに応じて、水で淹れた茶を急須から注いで飲んでみる。少しも茶の味がしない。色も全く出ていない。
『何だこれは、単なる水じゃぁないか』
確かに味もそっけもない只の水。寅の感想に万作も頷く。熊も納得である。
『万作兄貴、大体茶を水で淹れるってぇのが気に食わない。昔っから茶は熱いのが相場だ。俺ん所の向かいの爺さんなんか、大きな湯飲みに熱い茶をたっぷり入れてふーふー言いながら飲んでいたもんだ。こんな湯気も立たないような茶を飲んだからって飲んだ気はしないってもんだ』
まくし立てる寅の言う事も尤もだと思いつつも、万作が次の冷ました湯で淹れた茶を勧めた。
『どうだい寅さん。こっちの方は旨味が程よく出て、なかなか良い味じゃないかい?』
と万作が喜んで言う。それを聞いた寅はとんでもないと言わんばかりに、
『万作兄貴、とても納得できる味じゃない。さっきの水のには驚いたが、これも物足りなくていけない』
『そうかい。熊さんはどうだい?』
と意見を促された熊さん、まんざらでもない味であるという様子であったが、寅に反旗を翻す訳にもいかず無言。
『では、最後の熱湯で入れた茶を飲もう』
万作が冷めないうちにと先に進める。その万作が一口飲むや、その渋さにぐっと詰まったのだが、こらえて寅を見る。
『これは美味い。茶はこれでなくちゃいけない』
と寅が大声を上げて賛美した。万作は寅の言う事が信用できないというような目付きである。熊を見ると、こちらは熱い茶の湯気で畳目の付いた額を刺激され、更に渋味が口に浸みると見えて、硬く押し黙っている。
『どうやら、寅さんは渋いのが好みのようだ。それはそれで結構だが、茶には甘味と言うか旨味と言うか、ともかく、渋いのとは違った味も楽しめなくては通とは言えないから、ひとつそれを出してみようじゃないか』
と万作が言い出すと、通ではないと思われるのも癪だとばかりに寅が、
『いいとも、万作兄貴の思うとおりにやってくんな。試しに飲んでやろうじゃないか』
『さっきの水で入れた奴だが、あれは出し方が全く駄目なやり方だったんだ。今から淹れるから見ていな。先日、里の『弁天庵』にわざわざ行って教わってきたから間違いない。それを披露するとしよう』
それを聞いた寅と熊が真顔になった。
万作は洗ってきた急須に茶葉を先程の量の3倍程を投入し、水の量の方はというと前回の半分以下の量を注いで蓋をした。
『ここで5分程置きたいのだが、さっきやった手拍子は熊さんの顔の傷に障りがあるようだったから止める事として、あそこの柱時計で5分経つのを待つことにしよう』
長い時間が過ぎて、薄汚れた柱時計が5分を経過した。おもむろに万作が3つの茶碗に急須からしたたり落ちる茶を注ぎ分けた。力まかせに何度も急須を振り下ろしたにも関わらず、急須から搾り出た茶の量は極めて少量であった。
『これっぱかしかい?』
と寅が驚く。
『そうだ、茶の葉が吸い取ってしまったのだよ。そこでだ、残ったこの少ないお茶を飲むには、それなりの飲み方がある。寅さんみたいに威勢よく一気に飲んでしまうのは良くない。量が少ない分、大事に飲まなければ罰が当たる。そっと茶を舌の上に乗せるように、口に含むようにしなければ駄目だ』
万作が先にそれとなくやってみせる。二人が続く。茶を口に含んだ二人が一瞬目を合わせた。
『ひょー、これは甘い!』
と寅が言う。熊も驚きの顔である。
『とまあ、こんなものだ』
と万作。しかし、ここでにわか仕立ての蘊蓄などを言って、寅の茶々にやり込められるのも具合が悪いと思ったか、今日の実験はこの位にして終るのが良さそうだと悟ると、いきなり重々しい声で言った。
『諸君、ご苦労であった。実験は大成功である!』
突然の閉会の辞に、寅と熊があっけに取られた。始まりの挨拶とはえらい違いだ。それでも、これで実験から解放されると理解した二人が、ようやく笑顔を取戻すと、後片付けもそそくさと山間の谷間を駆け降りて行きました。

