朝早く5台の軽トラックに分乗して来た一行は、地蔵峠で降り、山林を登り始めてからかれこれ1時間に近くなるが、樹木に覆われている薄暗い山道は、まだまだ先が続いているようで、茶園らしきものは少しも現れてこない。
『まだ登らなきゃならんのかい。もう足がガタガタだ』
と早くも寅が根を上げ出した。軽トラックから降りた際、めいめいに与えられた比丘(竹篭)が、腰に結えてあるのだが、それすらも邪魔臭いといった体である。
『俺たちを茶摘みに誘った寅さんがそんなことでどうする』
と万作がなじる。
『いやなにね、例の製茶工場の跡取り息子に、人手が足りないからと、無理やり誘われっちまったのが運のつきで、まさかこんなに山を登らなきゃならないとは思わなかった。前を行く爺さん婆さん達もあの跡取り息子に騙されて来ているに違いない。もっとも、騙されてきているにしては、ずいぶん元気そうだ。この山道を登るのがちっとも苦にならないらしい』
『皆、この辺りに住んでいるのだろう。山を住処にしているようなものだ。寅さんとは訳が違う』
『仰る通りだ。もう限界だ。熊さん、どうだい一休みしようじゃないか。早く行って茶をたくさん摘んだからといって、俺たちの得になるものでもなし、お茶工場の跡取り息子を喜ばすだけのこと、何もこうまでして義理立てすることもあるまい』
と寅は木株の上に腰を降ろしてしまった。よほどしんどいとみえる。そんな時、かなり離れてしまった先頭で歓声が上がった。
『着いたぞ!』
見上げると、樹木が切れて空が明るく差し込んでいる。寅は仕方なくせっかく座った束の間の休憩を諦めて重い腰を上げた。一段と急な勾配となった最後の山道を這い上がると、急に視界が広がって、一瞬、目も眩むほどの急峻な谷間が足元から落ちている。三人はいっきに絶壁の頂に躍り出たのである。
おっかなびっくり谷底を覗いている三人に、時折谷底から強い風が襲ってきてはさらに恐怖心を煽る。
『うわー、おっかねえ』
と思わず熊が声を出す。それを見た土地の爺さん婆さん達が大きな声で笑った。その笑い声が軽やかに谷間を駆け下りていった。
『さて、始めるか』
と一人の爺さんが声を出した。そのリーダーらしい爺さんの一声で皆が散った。
『爺さん、茶を摘むってどこで摘むのだい?』
と寅が聞く。
『ここで摘んで貰うんだよ』
『ここで?この絶壁の上で?茶畑はどこに有るんだい?どこにもないじゃないか?』
『それ、目の前にあるじゃないか』
と爺さんが目の前の木の葉をつまみながら言った。木の高さは爺さんの背丈ほどである。
『え?これがお茶の木かい?』
『そうだ。自然仕立てといって枝をそのまま伸ばしているのだ』
『へー、茶の木は皆かまぼこの形をしていると思っていたが、なるほど、こうしてみればちゃんと普通の木の成りをしている。植物ってのは、こうでなくちゃいけない。自然が一番さ、なあ、熊さん。いつも見ているかまぼこ型の茶園の木は、どうやら偽物らしいぞ』
熊は、そんな話はどうでも良いという様子。しきりに二人の立つ茶の木から先が急な崖になっているのを気にしている。
熊の怖気付いている様子に気の付いた寅が、リーダーに尋ねた。
『爺さん、自然仕立ては結構だが、この崖っぷちの下の方のも皆茶の木かい?』
『そうだ』
『じゃ、この崖っぷち全体が茶畑と言うわけかい?』
『そうだ』
『すると、今から茶を摘むって言うのは、ここの事?』
『そうだよ』
爺さんが答える。
『爺さん、ちょっと質問させて戴くが、なぜこんな急な崖っぷちにわざわざ登ってきて茶の木を植えなきゃならんのかい?他に良い場所がありそうなもんだが?』
『ここが良いんだよ。この急なところが良いんだよ。さっきから気持ちの良い風が吹いているだろう。この下から吹き上げる風がお茶には大変良いのだよ。お茶は霜に弱くてね、こういう冷涼な山間地では霜が一番の大敵なんだが、風があると霜は降りにくいのだ。特にここは谷底から暖かい空気が年中吹き上がっているので、これまでに霜にやられたことがほとんど無い。お茶にとっては絶好な場所という訳だ』
『なるほど』
『さあ、お前さん方は茶摘は初めてと見えるから、こんなふうに摘んで、腰の比丘に入れてってくれないか』
と、リーダー爺さんが3人を促した。
『いいとも』
と寅が元気な声を出して答えた。爺さんが1つ摘んで3人の目の前に出して説明を始めた。
『一番上の尖ったのが芯芽だ、その下に3枚葉が交互に付いている。一芯三葉で摘む訳だ。まあ、だいたいこんなところを採ってくれれば良い。葉が2枚になっても良いが、4枚5枚と多くしないようにして欲しい。良いお茶にしたいから』
『了解。それで、折るのかい?引っ張るのかい?』
『親指と人差し指で挟んで横に折るよう摘み上げれば大丈夫だ』
三人が爺さんに倣って摘んでみる。三人三様である。爺さんがそれを見て言った。
『万作さんのは大変良い。熊さん、そんなに怖がる事はないよ。いちいち葉の枚数を数えるほど丁寧にすることはない。寅さんのは多少荒っぽいが良いだろう。ただ、寅さんだからといって虎刈りにならないように気をつけてくれ』
と爺さんが冗談を言ったのか注文を付けたのか判然としない言い方をしたが、三人はもう夢中で摘み始めている。
全員が黙々と茶を摘む。どこからともなく鶯の鳴き声がする。陽の光も次第に強くなって汗ばむ身体を薫風が通り抜けて快い。のどかである。しかし、寅の作業ははかどっていないらしく、比丘の中の茶はまだ少しである。堪りかねて熊の比丘を覗き込む。こちらの比丘の中もほんの僅かである。
『熊さんよ、どうやら俺たちが一番遅いらしいぞ。見てみな、皆、比丘を一杯にしては、あそこの大きな袋に入れている。それをもう何回もやっているようだ。どうして、こんなに差が付くと思う?』
首を振る熊は寅に少ないと言われて焦りだした。
『いいかい、あの連中の手つきをよく見てみな、俺たちのやり方と違うとは思わないかい。どうもあの爺さん、我々には本当の摘み方を教えなかったんだ。出し惜しみしたに違いない』
寅の疑問に熊が気にして、皆の手つきを見ると、確かに寅の言う通りである。その熊の顔を見て寅がリーダーに声を掛けた。
『爺さんよ、どうも摘み方があそこのおばさん達のやり方と違うようだが?』
爺さんが顔を上げた。
『確かに。あのおばさん達の摘み方はしごき摘みと言って、あんた方の摘み方とは少し違う』
『少しどころかずい分違うようだが。爺さんどうして、それを教えてくれないのだい?』
『しごき摘みというのは、こうして、指で折らずに上に引っぱり上げて摘むのだが、これだと、硬めの茎は枝に残り、葉っぱだけが上手い具合に採れるんだ。が慣れないとなかなか上手くいかんだろう』
『その方が早く摘めるのかい?』
『慣れれば、早く摘むことは出来る』
とリーダー爺さんが答えたが、あまり薦めたくない様子である。折角のお茶の葉が傷つけられては台無しである。しかし、寅にそんなことが解かろう筈もなく、声を張り上げた。
『じゃあ、決まった。それで行こう。事は簡単だ。引っぱり上げれば良いんだろう?』
寅が知ったかぶりにやってみせる。万作は寅に黙って従う。それを見て熊が右手を枝の中に突っ込んで茎を掴んだ。この時、熊は急な勾配を背にして何とかバランスを取って立っていたのだが、新しいしごき摘み導入は熊にとっては、そのバランスを著しく損なうものであった。ましてや、茶園の土は枯れ草などが敷き詰められていて、ふかふかと柔らかく、踏めば足が沈む状態になっている。熊が突っ込んだ右手を引っぱり上げると同時に、身体を後方に反りあがらせたから、重心がかかとの側に移るや土がズブと沈んで、熊はそのまま後ろにのけ反るように崖の下に落ちていった。
熊の顔が突然消えてなくなった。居合わせた三人がビックリ仰天。と、ザザザーと茶の木を揺るがせて崖をすべり落ちていく音。すわ一大事と三人が崖を覗き込む。すると八メートルばかり下で熊が何かにしがみ付いている。
急峻な茶園は土が崩れ落ちないないように、要所要所に堰き止め用の丸太が横に敷かれていて、それを太い丸太杭で止めてあるのだが、熊はその丸太杭を必死に抱きしめているようである。
それと見た万作が救出に滑り降りていこうとする。傍にいた爺さんがその万作の腕を掴んで止めるや、脱兎の如く茶園を駆け登ると、太いぶなの木に巻きつけてあったロープを抱えて駆け下りてきた。
『これを身体に巻きつけて降りろ』
と爺さんが万作に言う。承知したとばかりに万作がロープを身体に巻きつけるや、熊のもとに滑り降りて行く。それに合わせて爺さんがぶなの木を介したロープを弛めている。その間、寅は万作と爺さんの見事な連携プレーには全く無頓着で、ただ熊に声を掛けているだけ。
『熊さん頑張れ。今助けに行くから安心しな。そのぼっ杭から絶対手を離すな』
熊は杭にしがみ付いている。その熊の頭をめがけて、万作の駆け下りる足元から崩れ落ちる土石が容赦なくぶつかっている。その度に熊のしがみ付きが一層必死さを増しているようであった。やがて、万作が辿り着いた。万作は熊に声を掛け、ロープを身体に巻きつけようとしたが、熊は万作の言葉など耳に入らない。馬鹿力で杭にしがみ付いているから、なかなかロープを身体に巻きつけられない。それでも何とか万作はロープを自分の身体と熊の身体を一体に縛りあげることに成功。爺さんにロープを引き上げるよう合図する。この時には、事件を知った茶娘(?)達も集まっていて皆でロープを掴んで引き上げ始めた。万作は杭を抱きしめている熊の両手をもぎ取る様に引き離した。途端に二人の身体が勢い良く上に引きあがった。
勢い余って茶娘達が一斉に尻餅を付く。大きな叫び声と歓声がのどかな山間にこだました。
熊の救出が終ると皆何事も無かったように茶摘に戻っていった。熊は茶摘から外されてぶなの木の下でうなだれている。それを寅が付き添って慰めている。
『熊さん、とんでもない目に遭っちまったなあ。それでも、大した事無くて良かったよ。あのまま下まで落っこちたら、青竜川に飛び込んで、今頃は幸福橋辺りまで流されているのかも知れない。5月といえばまだ川の水も冷たいから、川下りを楽しむのには早過ぎると思うよ。ここで、こうして鶯の声でも聞いている方がよっぽどましというもんだ。なあに、茶摘はあの爺さん達に任せておけば大丈夫だ。万作兄貴もあの通り頑張っている。第一、今日は新茶の走りを摘もうってことだから、跡取り息子だって高値で売りたいと思っているに違いない。つまりだ、上等なお茶を造らなけりゃならないって訳だ。それには、茶摘にしたっていい加減に摘めば良いってことでも無い筈だ。そう考えれば、もともと俺達素人の出る幕じゃないんだよ熊さん』
寅の慰めに熊も幾分気持ちも収まってきているようである。こうして、いつしか太陽も中天に登りお昼となった。皆がぶなの木の下に集まってきて、筵を引き輪になって座り弁当を広げた。
『熊さん、災難だったなあ』
と茶娘おばさんが声をかける。熊が一層萎れる。すると、茶娘おばさん達が、今朝早くから作って来た各自自慢の弁当を差し出して来て食べるように勧めた。
『口に合わんかも知れんが、まあ食べてみておくれよ』
最初は遠慮していた熊であったが、茶娘おばさん達の強引な押し付けに負けて、宛がわれた箸を取って口に入れる。と、その美味しさに熊が目をパチクリさせた。山菜の珍味である。ひと泣きしたあとで空腹の上、一人暮らしのコンビニ族の熊が、この手になった珍味に感動しない訳はない。入れ替わり立ち代わり出てくる手造り料理を次々と平らげて行った。茶娘おばさん達はそんな熊を見て面白がって笑いこけている。万作が声を掛けた。
『よかったなあ、熊さん』
熊が頷いた。茶娘おばさん達の親切が身に浸みている様子であった。
昼飯が済むと午後の茶摘は皆黙々と作業に集中している。茶をしごく音と鶯の声のみの静寂な世界である。摘んだ茶は大きな袋に纏められ、慌しく山を下りトラックに積まれては茶工場に運ばれていた。やがて、太陽が西に傾き、吹く風も冷たさを感じるようになった頃、リーダー爺さんが大きな声を出した。
『もう、この辺にしよう』
全員そそくさと帰り支度をすると、山を降り地蔵峠に戻る。三人はトラックが茶を工場に運んだ後で迎えに来るからと、その場に残された。茶娘達が残った三人に声をかけ手を振って去って行った。辺りは急に寂しくなった。三人は石地蔵の前に腰を降ろした。疲れているのか誰も口を利かない。次第に薄暗くなってきたのだが、軽トラックはなかなか迎えに来なかった。熊が心細さを隠さない。
『熊さん、心配するこたあないよ。そのうちに迎えに来るさ。バタバタしたって始まらない』
と寅が言うが、その寅の声も自信が無い。時は過ぎ何時しか陽はとっぷりと暮れて真っ暗になって来た。寅が心細さに我慢できずに立ったり座ったりと落ち着かない。その時、向こうの樹林の間から車のライトの明かりらしい光がちらちらと見えてきた。寅が二人に知らせると、小躍りして立ち上がった。明かりはドンドン近寄ってくる。するとエンジンの音も聞こえてきた。
『万歳!』
熊と寅が感極まって抱き合って喜ぶ。万作も笑顔を隠さない。
やがてトラックが到着して、運転席から降りてきた見知らぬ顔の中年男から、迎えが遅くなった理由を聞かされる。どうやら製茶作業に追われて3人のことはすっかり忘れられていたということらしい。それでも、思い出した者が居ただけでも良かったと、その男が言う。3人は黙ったまま荷台の上に乗る。トラックは真っ暗に静まり返った山道を走り始めると、肩を寄せ合って乗っている三人の身体を右左に大きく揺らす。虚ろな三人の眼からは、見る見るうちに、石地蔵が消え、地蔵峠が去って行きました。
【小説の最新記事】


